百合文芸5自作覚え書き

 

百合文芸5の締切に間に合いましたか? 私はふたつ投げました。投稿した方、かかってこいや。投稿できなかった方、来年はチャンピオン席から観戦させてもらうぜ。

というわけで、百合文芸に投稿したふたつの短編の備忘録を書きます。ネタバレ全開のかなり赤裸々な書き散らしになっております。ネタバレを見てから読むか読んでからネタバレ見るか、それは君の自由だ。

 

文中リンクはAmazon青空文庫かpixivかWikipediaに飛ぶようになってます。

 

第一弾 「酢豚をパイナップルに入れる」

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着想

「ゆきあってしあさって」という本があります。

高山羽根子、酉島伝法、倉田タカシの3人による、書簡集という体を取った架空の地域への旅行記です。刊行まで10年くらい待ってから読んだのに「待った甲斐があったなぁ」と思うくらいいい本なのでみんな読みましょう。

で、ゆきあってしあさっての倉田タカシパートに「ほふりの村」という巨大生物解体祭りの話があり、これを読んでる時に思いついたのが酢豚である。

最初に浮かんだアイデアはみっつ。

・巨大な果物の中に丸のままの肉を入れてタンパク質分解酵素で柔らかくする調理方法。

・生きた人間が巨大な果物に入って即身仏的な存在になり、祭りで供されてありがたいありがたいと言いながら食べてるシーン。

・「酢豚をパイナップルに入れる」というタイトル。

これが浮かんだのが去年初春。ピンクの象を考えない という短編を投稿して2~3ヶ月後のころ。

(ピンクの象は読んだ人からの反響がめちゃくちゃ良かったフックの強い短編。死に戻り老女中学生のサイコ百合)

(なにそれ)

(超面白いから気になる人は読んで)

(一次落ちしたのまだ信じられない)

その頃はまだ百合文芸4の締切までひと月くらいあったので、旅行先で仲良くなった女の子が即身仏になって食べちゃう話を書けるかもな、書いちゃおうか。と思い立った。

書き始めて気づいた問題点

ミノタウロスの皿じゃん。

・百合文芸にカニバリズムみたいな悪趣味なテーマを投稿するの、食傷気味じゃない?

・死体埋めを投稿したばっかだしさぁ。

心の中から湧いてくるこれらのツッコミを回避する方法を思い付かず、ひとまずお蔵入りになることに。

その後も

・女の子を食べる日から始めて、女の子と出会う日で終わるよう逆順で書くのはどうか。カニバリズムシーンを後から「え、アレってひょっとしてそうだったの?」と思わせることができて直截的なグロ描写を回避できるのでは。

とか

・食べる役の語り手には自分が食べてるのが人肉だと最後まで気付かせないようにしようか。

とか色々考えてみたが、なかなかしっくりくるアイデアが出てこなかった。

そうこうしてるうちに百合文芸4の締切は過ぎ、あっという間に百合文芸5に投稿するならそろそろ書かないとなーっていう時期になってくる。とはいえその間に書いた短編もある。そのうち一つはまだ発表できないけど、相互の百合オタクと

「百合アンソロ作るけど参加します?」

「する!」

「テーマこれですけど書けます?」

「書ける!」

みたいなやりとりの末書き上げた短編なので、それはまた別の機会に告知します。楽しみにしておいてください。

再挑戦

百合文芸用に温めていたネタは何個かあったけど、その中ではこれが一番書き上げやすそうだったので「えいやあ」で冒頭を一から書いてみた。で、手が勝手に動いてできた文がこれ

>男もすなる旅行記といふものを、女もしてみむとてするなり。

 

紀貫之 土佐日記のパロディである。この話の語り手は御影福良というのだが、この子は過去作 人をやるのが一回目 からの流用で、いつか再登場させて大人の姿を書きたいなぁとずっと機会を伺っていたキャラです。土佐日記みたいなちょっとした教養を、ひけらかすわけでもなく自然に発露するようなイヤミのない頭良さげキャラって感じのイヤミな存在なのだ。この「いつか大人になった姿を書きたい」という考えは実はネーミングの瞬間からあり、そもそもが「御影福良→ふくら みかげ→膨らみかけ」という地口から出来た名前なので、中学生の時はまだ膨らんでないからずんぐりしてて、大人になると乳がでかくなっている。今後男と結婚するのかどうかは知らないが、するんだったら三隅って苗字の人とするんじゃないだろうか。膨らみ済み。

話がそれたので戻します。

土佐日記の冒頭パロディが手から勝手に出力されたことで頭に浮かんだことがあって、それが「土佐日記って信頼できない語り手ものでは?」というもの。読んだことないけど。男なのに女というていで書くのはただの嘘つきじゃねえかという見方もあるけど、それを信頼できない語り手と言い換えることも可能じゃん、という。文学史的な文脈なんて知らねえ。

で、この発想から連鎖的に信頼できない語り手+旅行記といえばジーン・ウルフ「アメリカの七夜」じゃん、という発想が出てきた。SFマガジン 2021年 04 月号に載っていた若島正の詳細な解説を読んだということもあってそういう発想に至ったのだけど、酢豚ってこの方向に舵切れば諸問題が全部解決してしまうのでは? エウレカ! という感じになった。あ、アメリカの七夜がどんな話かは各自読むか調べるかしてください。

解決

というわけで、以下の問題はいい感じに解決されたと俺の中では処理された。実際に解決できたかどうかは君の目で確かみてみろ。

ミノタウロスの皿にしかならん→信頼できない語り手にすることで表層はいくらでも偽装できるので気になるほど似ない!

・百合文芸にカニバリズム投稿するのどうなの→信頼できない語り手なら直接食人シーンを書かないので言い訳が立つ!

・死体埋めからカニバリズムってどうなの→表層をほのぼの旅行記にすれば不穏さが払拭出来て似たのが続く感じにはならん!

こうして懸念が無くなったことであとは比較的順調に書き進めることができ、完成に至ったのだった。俺が書く小説はこういう風に一文目が問題解決の糸口になることがままあって、しっくりくる一文目が書けたらあとは最初に思い描いていたビジョンを取りこぼさないよう気を付けて次の一行目次の一行目と順番に書いていけば出来上がるみたいなのが多いんですが、皆さんはどうですか? 書いてますか?

実際にどう書いたか

信頼できない語り手で書くと決めたことで、書いてあることと実際に起きたことに乖離がないとダメになった。じゃあ何が起きてどれを隠そうとしてるのかを決めとかないと。ということで「このポイントは断定した描写をしない」と決めたのが以下三点。

・出てきた料理が人肉であること。

・調理前に五体満足だった女の子が調理後は片腕になっていること。

・舞台が日本であること。

はっきり覚えてないが、確かこの辺で調理される女の子が死なないバージョンに変化した(最初は即身仏の予定だったのに)。理由はいくつかあるが、一番大きかったのは姉妹編構想がこの辺で持ち上がってきたこと。百合文芸用に温めていた残りのネタに酢豚のキャラを流用できるのではないかと、信頼できない語り手にすると決めたらへんで気付いてしまったのだ。

信頼できない語り手はめちゃくちゃ色々な問題を解決してくれる。信頼できない語り手なんかに解決されてしまうような問題をいくつも抱えているのって異常では?(そうかも)

で、どのような問題があって何で解決したかを簡単に言うと、温めていたネタの方は日本が舞台の幼馴染みもので、酢豚原案が異国舞台だったのでどう考えても接続できないのだが、信頼できない語り手にして酢豚を「異国風に記述された日本」が舞台の短編に変えることができたので幼馴染キャラをそのままスライドさせることが可能になったのだ。万歳。

話が逸れた。よく逸れる。

信頼できない記述をするにしてもちゃんと読んでくれる読者にはちゃんと伝わらないとダメなので、何が起きてるかはあんまり隠すつもりなく書いた。というか、かなりあからさまに書いた。読んだ人全員に絶対人肉じゃんと思ってもらいたかった。伝わってましたか? 伝わってたらそれだけでこの作品は成功です。逆にあんまり気付かれないでといいかと思ってたのが舞台が日本であることで、これはおまけというか隠し要素というか姉妹編の方に接続出来ればそれでいいっていう狙いしかなかったので、そっちを読んで初めて気付いてもらえる程度でいいかくらいに考えていた。実際酢豚だけを読んでこれに気付いた人どれくらいなんでしょうね。全然取材してないふわふわ異国描写としか思ってもらえないような気もするし実はバレバレだった気もする。

というわけで百合

あくまで百合文芸に投稿する短編なので、女女のクソデカ感情を書かなければならない(が、これもほとんど直接書けてない)。ただカニバリズムものなので、自分の体を食べさせるという行為を読者に読み取らせることができたらあとは勝手にクソデカ感情を補完してくれるだろうという信頼(丸投げ)はあった。

主軸はトリン→福良の「私を食べて」という感情で、さらにそこにリピコのヤキモチと福良の「なんかよく分からんけど懐いてくる少女かわいい」という感情が添え物としてある。「私を食べて」がメインなので信頼できない語り手煙幕でカニバリズムがカモフラージュされてるとメインの感情も直接書くわけにはいかなくて「これいいのか?」という葛藤があったりなかったり。いや、なかったな。今までも百合文芸でそんなに感情をストレートに書いてなかったのでそれでいいやと勘違いしてる節がある。直したほうがいいかもしれない。 本文から引用すると

>初めて好きな人と一体になった時の快感を味わっているような、恍惚とした表情

>一心同体の無二の関係

ここら辺が「食べられることであなたの一部になれることが嬉しい」の描写。今読むとあっさりしすぎてる気もする。まぁいいや。

あとなんだろうな。なんか書くことあったかな。まぁ思い出せないからいいや。次。

第二弾 「うらみっこつらみっこ」

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着想

この短編のアイデアはかなりシンプルで、ちょっと前に出てきた「親ガチャ」という概念を聞いた時、ソシャゲのガチャ演出のような「ノックの音がする」→「光りながら扉が開く」→「SSRお父さんかNお父さんが出てくる」というイメージが思いついてしまったので、それを書こうとしたもの。そのシーンから逆算してもろもろが決まった話で、さらにラストシーンにリドルストーリー的な味付けもして結果を明記しないのが良いかもなぁ的な考えで作り始めた。リドルストーリーっていうのは「女か虎か」って話が有名なんだけど、簡単に言うと「読者が想定しうる二つの結末のうち、どちらになるか確定する直前で終わりを迎える話」って性格の悪いジャンルのことです。とりあえずWikipediaを読みましょう。うらみっこつらみっこはリドルストーリー的な味付けをしています。的な、ね。

この話がどんな話か要約すると、一時保護所で再会した幼馴染が迎えを待ちながら生活し、片方の性格最悪の父親が迎えにきたらイヤだよね、もう片方の父親が来てくれたほうがいいよね、どっちが来るかな、ってところで終わる話です。

リドルストーリー的な話なのでリドルストーリーではなく、結末は確定してるんだけど、まぁこれも伝わっても伝わらなくてもいいかの精神で書いた。こう書いてて今思ったど、その精神で書くのかなり独りよがりでは? ですね。独りよがりで書いてます。文句あるか。

この記事はネタバレ全開なので書いてしまうけど、作者の想定している結末は「幼馴染の二人は異母姉妹なので父親は同じであり、ふたりとも性格最悪の父親に引き取られちゃうけど、離ればなれにならずに済むからよかったね」エンドである。以下本文からそれを読み取れる描写を引用。

>幼少期から二年前まで共に過ごしてまるで双子みたいに見られていた。

双子ではなく異母姉妹

>機嫌良さそうな親父が帰ってきてドアドンって蹴ってピコが中からすぐ開けてあげないとドドンドンって蹴り追加してきてまじウゼェ

>リズムに乗って四回ノックしたらそれはお母さんじゃなくてお父さんが入ってくる合図

>コンココンコンとノックの音がして私たちが返事をする前にドアが開いて「父さんだよ」って声がしてこの話は終わり

父親のノックのリズムが同じ→同一人物であることの示唆

今こうやって抜き出してみると、ここから姉妹であることを読み取れっていうのはかなり無理ゲーな気がしてきたな。まぁいいや、実は作者的にはこの短編の真の価値はそこにはないのだ。 それに作者の想定以外の解釈を読者がしても全然いいしな。作者と違う解釈のほうが面白いんならそっちを正解にします。誤読なんてねえぜ。

真の価値

この短編も先の酢豚と同じで、しっくりくる冒頭の一文を書いたらあとはそれに続く文章を書いていくだけってやり方で書いた話で、その冒頭というのがこれ。

>「片手で大変だろうけど」と言われるまでもなく大変なのは大変なのであってそんなことはあなたに言われるまでもなく私が一番よく分かっているんですよ。

一文が長い。

読点がない。

でもなんか書いてて気持ちいいし、それに読み直しても気持ちいい。リズムがあってすんなり読める。自分で書いた文章だけど、俺この文章好きだわ。もっと読みたい。

というわけでこの「気持ちいい」を大事にしてその快感が壊れないようにだけ気をつけて書き進めて出来上がったのがこの話である。

その結果セリフではないモノローグ部分にはほぼ読点がなく(あったら多分癖で打ったのを取り忘れてる)語順や単語や接続詞の選択基準も快感優先という変な文章が出来上がった。オナニーかよという執筆体験だった。気持ちよかった。

終わり方は最初から決まっていたし、登場人物も酢豚の流用なのでそこそこ固まっていたのだが、自分が書いたこの冒頭に引っ張られて自分で作ったキャラ表がほぼ意味をなさないくらい最初の想定とずれていくことになる。でもそこはそれ。ほら、無理やり書き上げたらなんか知らんが、なんとかなってる。なってるよね。なってないって? なってんだよこれで。怒るぞ。

話としては「ふたりが再会する」「あらためて仲良くなる」「親が迎えにくる」のみっつしか要点がないので、百合にするには「あらためて仲良くなる」のところをちゃんと書かないといけない。

ちゃんと書けない

いや、自分が読んで面白いと思うようには書けてるよ。書けてるけどそれが「幼馴染にイタズラした(してない)女に水ぶっかける話」と「ちんこデカすぎ男に挿入されてめちゃくちゃ笑った話」をしあうというものになるの、なんなんだ。もっとなんかこう……他になかったのか。ないな。ないわ。俺の中にはこれ以外ない。それ以外空っぽ。

俺はこういう、気の置けない間柄の同性とバカ話をして心の底から笑うようなのがいっちゃん好きなんだ。次点で好きなのはどうしようもない状況に追い込まれて自棄になってる女たち。 ちゃんとは書けてない気がするがここでちゃんと書けてたら俺の小説じゃないって気がするな。そういうことにしておこう。

いやー、やっぱいいわ俺の文章

そんなこんながあったりなかったりして「親が迎えに来る」というラストシーンに向かうわけだけど、みんな読んだ? ここめっちゃ良くない? 自画自賛だけど。ラストシーンに繋がる場面転換の文章として満点だと思う。読み返すたび俺は自分に惚れ直してたよ、ここ。

>全然くだらない話で私も笑う。二人で笑い転げる。転げてるピコの服をまくってお腹を出させて腹筋の全然ない柔らかなお腹の真ん中にあるおへそに「これかぁ」って思いながら舐めたり舌を出し入れしたりする。ピコの笑いが止まらなくて私もめちゃくちゃ愉快でこんな日が永遠に続けばいいのになと思うけどここは一時保護の場所で一時でしかなくて永遠なんて来なくてすぐに終わる。迎えがくる。

まじでいい。溜め息でる。芸術的な緩急。永遠じゃねえ、無限だよ。

おわりに

というわけで、こんな感じで俺は百合文芸を書いています。こうやってまとめて思ったけど、賞レースに参加してるという意識が希薄すぎる。どれだけ好き勝手できるかの賞だったらいいとこ狙えそうな気もする。どうなんでしょうね。pixivさん「好き勝手やったで賞」も作ってくれませんか?  あと俺は自分のことが好きすぎませんか? こういう記事書いてる時点で明白ですけど。

あ、そうだ各短編冒頭につけた引用なんですが、今回は酢豚がジーン・ウルフの「アメリカの七夜」(短編集デス博士の島その他の物語所収)で、うらみっこが津原やすみ「五月日記」から。全然関係ないんですが、百合小説コレクションwizに「魔術師の恋その他の物語」というデス博士オマージュのタイトルで短編を寄せてる南木義隆先生は故津原泰水先生の愛弟子で、なんと俺の百合の同士でもあるんですね。いやー奇遇ですね。そんな偶然もあるんだなーって。本当に全然関係ないんですが。全然関係ないんだけど百合小説コレクションwizは佳品揃いのいい短編集なのでみんな読もうね。

そんな関係のない話をしてこの記事は終わりです。尻切れトンボですね。そんなもんです。人生だってそうでしょう?(なんでも人生に例えればいいと思ってるやつ)

2022年よかったもの総括

 よいお年を!

 で言いたいことなくなったので別に終わりでいいんですが、なんか周りの人全員今年良かったものリストを作っている気がするので(錯覚)私も今年の総括としてそんな記事を書こうかなと。ところでみなさん、私がブログ持ってるの知ってました? 私は忘れていました。これを更新したら多分2023年に思い出すことはない。存在価値のないブログさ。悲しいね。

1.平方イコルスンスペシャル』

 

 今年ついに完結しましたね。終わるまで長かった。いや終わるまでがもっと長い漫画はいくらでもあるんですが、毎話毎話最高だったので次の更新が待ち遠しくて時間が長く感じるんですよ。主観時間最長連載漫画。相対性理論

 

 もちろん皆さんも読んでますよね。読んだ上で阿佐ヶ谷ロフトの完結記念イベントにも現地へ行ったか配信で見たかしてくれてると思います。最高の漫画だった。総括最初の一作はこれです。では次。

2.平方イコルスンスペシャル』

 

 はい。

 この記事の主旨は勘のいいみなさんにはもう伝わったと思います。

 いいですか?

 いきますよ?

 ハノサヨという主人公の目線で描かれる群像劇的な側面が強い序盤の面白さもさることながら描写の中心にいる超常的な怪力を持つ伊賀さんとの関係が段々と深まっていく様子そして大石家への潜入作戦という伊賀が入院するきっかけとなった出来事によって断絶に至り諸々あっての再生(「それはどうかな?」で絶対泣く)そして圧倒的な悪意の介入が始まってそれまで想定すらしていなかった緊迫感が作品を覆い尽くすわけですよここの暴力に対する躊躇いのなさがすごいんですよね人が死ぬ時の呆気なさにマジで呆然とするし場を掌握する美倉という最悪の女(年上の女にめちゃくちゃにされたい津軽は幸せな最期を迎えたよね)が引き起こした漫画史上最高の破局を迎えて読者を唖然とさせたまま完結したわけですがイベントの証言によりこの読後感のためにこの作品を組み立てていたことが明らかになってそうか俺たちの感情は手のひらの上でいいように操られていたんだなという心地の良いしてやられた感が最高なんですよ。ここまで一息。

3.平方イコルスンスペシャル』

 

 ぜー。

 はー。

4.平方イコルスンスペシャル』

 

 日常と非日常。普通と異常の全てが詰まった漫画。最高です。読んでない人読んで。読んだ人もっかい読も。俺も読む。

 そういえば日本SF大賞っていう、ノミネート作が推薦で決まる賞があるんですが、それにスペシャルを推薦してたんですよね。その文章を備忘録的に以下に残しておきます。まぁ最終候補作には残らなかったわけですが。SF作家クラブ見る目がねえな。ぺっ。

 田舎の学校に転校してきた女子高生視点の、日常漫画だ。著者独特の味があるセリフ回しは一度味わうと病みつきになり、一癖も二癖もある登場人物たちはみないきいきと描かれる。人の域を超えた怪力を持つ伊賀こもろなど、中には一筋縄ではいかない事情を抱えている人物もいるようだが、おおむね世界は平和に見える。最終巻となる4巻までは。

 ずっと続くと思われていた日常の水面下に隠れていた、人の、世界の悪意。それらが表出したあと、翻弄された登場人物たちはもう二度と元の日常に戻ることが叶わない。

日常ー非日常の間にある、薄膜一枚に満たない淡い境界の輪郭を描ききった傑作SF漫画である。

 https://sfwj.jp/awards/Nihon-SF-Taisho-Award/43/entries.html

 はい。

 ということで今年もお世話になりました。2023年もよろしくお願いいたします。

スペースは文字だ

 ツイートがバズりました。

 これです。まさに天才の業績ですわ。ガハハ。

 

 

 最後の行まで読んだら実はその行が最初の行だったことがわかるという、54字以上の文字数でやれと言われたら絶対お断りするタイプの一発ネタです。各地から寄せられる「天才!」「発想がすごい」「鳥肌が立った」「すげぇって声が出た」「一番好き」「座布団持ってけ」「めっちゃ上手い」などの絶賛の声が耳に心地良く響きます。「抱いて!」もそろそろ来ると思う。まだ来てない。来てほしい。

 

 それら称賛の声の中に「二文字足りない」「実質108字」「いや104字」など、文字数が気になって素直に不璽王さんを褒めることが出来ない人が混じってるようです。悲しいことですね。ですので、優しい不璽王さんが蛇足ですが解説します。疑問が解消されたら心置きなく喝采の声を私まで届けてください。

 

 はい。ではまずこれを読んでください。

 

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 スペースを埋めたバージョンです。成り立ってますね。こっちの方が良いんじゃないかという声もあると思います。ルール上、スペースは例外なく認めないなんて事になったらこっちを採用してください。

 でも、ですよ。「あ、これ左から右に向かって書かれてる文章なのか」という気付きはこのバージョンだと少し得にくいんです。

 

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 枠で囲んだ部分、ひとかたまりの文章だと気付きを得やすいですね。

 

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 こっちのバージョン、左から右に読むという気付きを若干得にくいように見えます。スペースがないことで、右側の文章とのつながりが強すぎてしまうような感じがほのかにしてきませんか。私はしてきます。あなたもきっとしてきてるはず。

 

 こういう風に見比べてみると、元のバージョンのスペースが、空間演出でネタの切れ味を引き立てているように思えてきますね?

 

 最初のバージョンは2文字足りないんじゃなくて、スペースふたつがネタを際立たせるという2文字分以上の効果を発揮させてるんです。わかりますね?

 

 納得出来たらOKです。ありがとうございました。すげえと褒めてください。

 でもやっぱ2文字足りてねえことに変わりはねえじゃんと納得できてない方もありがとうございました。今後の人生で私の道とあなたの道が交わらないことを願っております。

 68字の気がするとリプライをくれた方。私が習った算数と違う算数が頭の中にあるようです。今度その算数教えてください。

 

 では

 

サンチャゴのもう一つの浜辺ー月と太陽の盤に書かれた宮内悠介の書いていない短編を読むー

 【以下の文章にはネタバレが含まれておりません】

これはネタバレではない。
なぜならこんなネタなどないからだ。

 

 【と、いうわけです】

 

 宮内悠介はジャンルを意識する作家である。
月と太陽の盤はミステリ連作短編集である。
 サンチャゴの浜辺は単行本の最終話である。

 つまり、サンチャゴの浜辺を読む時は注意深くあらねばならないということだ。

 事実、冒頭からしてもう注意喚起の信号が灯っている。それまでの話で視点人物を務めていた愼は描かれず、メキシコの浜辺で暮らす青年がその代わりを務める。これは怪しい。ミステリに慣れていると自負する読者の頭の中で、ピーンと音がする。ははーん、さては錯誤させるつもりだな?

 巻末から数えて3つ目、表題作である月と太陽の盤のラスト付近に、メキシコ旅行はどうだったと聞かれた吉井利仙が苦笑しながら「いい蛤が入りましたよ」と答えるやり取りがある。サンチャゴの浜辺はメキシコの話である。普通に考えれば先のやり取りはサンチャゴの浜辺の布石であるが、私はひねくれているのでミスディレクションである可能性を考える。吉井利仙だと思わせといて、利仙ではないな? と。

 メキシコの青年に促され、碁石を買い付けに来た碁盤師は名を名乗る。だが青年、サンチャゴにはその名前が記号の羅列にしか聴こえない。そのため、サンチャゴの記憶にも地の文にもその名が刻まれることはない。ミステリにおいて、地の文に書かれないということが何を意味するのか。それを知っている読者はもう殆ど真相をその手に掴んだ気持ちになっている。なんなら顔にニヤついた表情さえ浮かべている。

 読者はページを繰る手を止め、利仙ではない碁盤師の正体を確定させようと考えを巡らす。というよりもほとんどその正体は愼だと思っている。棋士としての利仙に憧れ、碁盤師としての利仙に弟子入りした若き囲碁棋士だとほぼ確信している。サンチャゴの前に現れた東洋人は五十半ば。つまりこの話は、愼が利仙の跡を継ぎ、さらに碁盤師として成熟したのだということを提示する話なのだな。なるほどな。と合点する。

 読者は再びページを繰り始める。真相を既に掴んだ後であるから、ここから先は確認作業である。予想では何か、さりげない情景描写の中で時代背景が近未来だと示されるのだろう。そしてラスト、愼の名前が出てきて種明かしがされるのだろう。ふふん、読者には全てお見通しである。

 ところが、読み進めても証拠が出てこない。

 回想で贋作師との会話が挟まれる。もし東洋人が愼なら、恐らくこの贋作師は安斎ではないだろう。たまたま安斎そっくりに話す新世代の贋作師なのだろうか。多少強引であるからこの読みは美しくない。だが地の文に人名が書かれないまま回想は終わる。ならやっぱり、いや、どうだろう。ひょっとしたら読みが外れているのかもしれない。さらに読み進める。

 サンチャゴ以外の人名が出て来る。小林千寿。ハンス・ピーチ。嫌な予感がする。これは実在の人物では? であるなら、生年や没年などの動かぬ証拠が……。二〇〇三年に亡くなった。と書かれている。あぁ、しまった。書いてないものを読んでしまった。

 いや、読まされてしまった。

 短編はこう締められる。

「今回は、蛤に化かされたとでも思うことにいたしましょう」

 あぁー、追い打ちだ。故意犯だ。これは読まされてしまった読者の死体を蹴る文章だ。宮内悠介め、全て分かっている。掌の上で読者を転がしている。性格が悪い。

 蹴られた死体の表情がどんなものかはもう分かっているだろう。そう、気持ち悪くニヤついているのだ。

 

月と太陽の盤 碁盤師・吉井利仙の事件簿

月と太陽の盤 碁盤師・吉井利仙の事件簿

 

 

 

 と、いう文章をシミルボンの宮内悠介を読むコラム大賞に応募したのですが箸にも棒にもかからなかったのでここで公開します。

 分かる人はだいたい分かると思うのですが、これは殊能将之せんせーがジーン・ウルフケルベロス第五の首を紹介したときの文章とほとんど同じ構成なので、そちらを読んでいればこの文章を読む必要はほとんど生じません。読んでいた方はくたびれもうけでしたね。ご苦労様でした。

 

 殊能将之せんせーの文章はインターネット・アーカイブで読むことができます。

 

https://web.archive.org/web/20120127042918/http://www001.upp.so-net.ne.jp/mercysnow/Reading/fhc/mycerberus.html