サンチャゴのもう一つの浜辺ー月と太陽の盤に書かれた宮内悠介の書いていない短編を読むー

 【以下の文章にはネタバレが含まれておりません】

これはネタバレではない。
なぜならこんなネタなどないからだ。

 

 【と、いうわけです】

 

 宮内悠介はジャンルを意識する作家である。
月と太陽の盤はミステリ連作短編集である。
 サンチャゴの浜辺は単行本の最終話である。

 つまり、サンチャゴの浜辺を読む時は注意深くあらねばならないということだ。

 事実、冒頭からしてもう注意喚起の信号が灯っている。それまでの話で視点人物を務めていた愼は描かれず、メキシコの浜辺で暮らす青年がその代わりを務める。これは怪しい。ミステリに慣れていると自負する読者の頭の中で、ピーンと音がする。ははーん、さては錯誤させるつもりだな?

 巻末から数えて3つ目、表題作である月と太陽の盤のラスト付近に、メキシコ旅行はどうだったと聞かれた吉井利仙が苦笑しながら「いい蛤が入りましたよ」と答えるやり取りがある。サンチャゴの浜辺はメキシコの話である。普通に考えれば先のやり取りはサンチャゴの浜辺の布石であるが、私はひねくれているのでミスディレクションである可能性を考える。吉井利仙だと思わせといて、利仙ではないな? と。

 メキシコの青年に促され、碁石を買い付けに来た碁盤師は名を名乗る。だが青年、サンチャゴにはその名前が記号の羅列にしか聴こえない。そのため、サンチャゴの記憶にも地の文にもその名が刻まれることはない。ミステリにおいて、地の文に書かれないということが何を意味するのか。それを知っている読者はもう殆ど真相をその手に掴んだ気持ちになっている。なんなら顔にニヤついた表情さえ浮かべている。

 読者はページを繰る手を止め、利仙ではない碁盤師の正体を確定させようと考えを巡らす。というよりもほとんどその正体は愼だと思っている。棋士としての利仙に憧れ、碁盤師としての利仙に弟子入りした若き囲碁棋士だとほぼ確信している。サンチャゴの前に現れた東洋人は五十半ば。つまりこの話は、愼が利仙の跡を継ぎ、さらに碁盤師として成熟したのだということを提示する話なのだな。なるほどな。と合点する。

 読者は再びページを繰り始める。真相を既に掴んだ後であるから、ここから先は確認作業である。予想では何か、さりげない情景描写の中で時代背景が近未来だと示されるのだろう。そしてラスト、愼の名前が出てきて種明かしがされるのだろう。ふふん、読者には全てお見通しである。

 ところが、読み進めても証拠が出てこない。

 回想で贋作師との会話が挟まれる。もし東洋人が愼なら、恐らくこの贋作師は安斎ではないだろう。たまたま安斎そっくりに話す新世代の贋作師なのだろうか。多少強引であるからこの読みは美しくない。だが地の文に人名が書かれないまま回想は終わる。ならやっぱり、いや、どうだろう。ひょっとしたら読みが外れているのかもしれない。さらに読み進める。

 サンチャゴ以外の人名が出て来る。小林千寿。ハンス・ピーチ。嫌な予感がする。これは実在の人物では? であるなら、生年や没年などの動かぬ証拠が……。二〇〇三年に亡くなった。と書かれている。あぁ、しまった。書いてないものを読んでしまった。

 いや、読まされてしまった。

 短編はこう締められる。

「今回は、蛤に化かされたとでも思うことにいたしましょう」

 あぁー、追い打ちだ。故意犯だ。これは読まされてしまった読者の死体を蹴る文章だ。宮内悠介め、全て分かっている。掌の上で読者を転がしている。性格が悪い。

 蹴られた死体の表情がどんなものかはもう分かっているだろう。そう、気持ち悪くニヤついているのだ。

 

月と太陽の盤 碁盤師・吉井利仙の事件簿

月と太陽の盤 碁盤師・吉井利仙の事件簿

 

 

 

 と、いう文章をシミルボンの宮内悠介を読むコラム大賞に応募したのですが箸にも棒にもかからなかったのでここで公開します。

 分かる人はだいたい分かると思うのですが、これは殊能将之せんせーがジーン・ウルフケルベロス第五の首を紹介したときの文章とほとんど同じ構成なので、そちらを読んでいればこの文章を読む必要はほとんど生じません。読んでいた方はくたびれもうけでしたね。ご苦労様でした。

 

 殊能将之せんせーの文章はインターネット・アーカイブで読むことができます。

 

https://web.archive.org/web/20120127042918/http://www001.upp.so-net.ne.jp/mercysnow/Reading/fhc/mycerberus.html